【旅行記】北東北の鉄道路線を巡る旅~東北屈指のローカル線"山田線"をゆく~
前話
岩手県宮古市に宿泊して迎えた2日目。朝起きると雲一つない青空が広がっていた。さすが太平洋側だと思う。この日の旅のゴールは青森駅。2日目も割と長距離の移動となる。時刻は6時過ぎ、駅前のホテルをチェックアウトして、宮古駅へと向かった。
2019年に山田線の終点駅となった宮古駅

昨日は夜に宮古へ到着したので、明るい時間の宮古駅前を見るのはこれが初めてだった。時刻はまだ6時過ぎだが、三陸鉄道は久慈・釜石方面それぞれに2本、山田線も途中駅止まりの1本がすでに発車しており、駅は夜の明ける前から動き初めている。この駅にはみどりの窓口も設置されているが、その営業時間は4:45~19:20となっており、朝4時台からみどりの窓口が開いている駅としても知られる。最近のダイヤ改正で山田線の盛岡行の始発列車は1時間遅くなった。しかし、並行する106急行バスは5時台から動いている。このバスに乗り、盛岡から新幹線に乗り継ぐのであれば、先に盛岡からの新幹線のきっぷを買っておけばスムーズに乗り継ぎが出来そうだ。4時台から営業するみどりの窓口は特に四国地方に多く見られる。一方、東北ではこの駅が唯一の存在である。

宮古駅舎の隣には三陸鉄道の本社屋がある。この建物は2019年まで三陸鉄道宮古駅の駅舎として使われていた。前回の記事でも書いたが、この駅は盛岡から宮古・陸中山田を経由して釜石へと向かう山田線の途中駅であり、三陸鉄道としては北リアス線の起点駅だった。現在の宮古駅舎はもともとJR東日本が所有していたもので、かつてはJRと三陸鉄道で改札が別だった。東日本大震災の復旧工事後、2019年に山田線宮古~釜石間が三陸鉄道リアス線に組み込まれたことで、今度は三陸鉄道としては途中駅となり、山田線としては終点駅となり立ち位置が変わった。それに伴い、三陸鉄道と山田線の駅舎・改札が統合されることになり、もともとJR東日本が使っていた駅舎に両方の窓口と改札が設けられた。実はJR宮古駅は、三陸鉄道への業務委託駅となっていて、みどりの窓口の営業や改札は三陸鉄道の駅員により行われている。もともと三陸鉄道の駅舎だった建物は、全面的に本社の社屋となった。以前の写真を見ると、三陸鉄道の文字の横に宮古駅と書かれているが、現在は取り外されている。

駅の正面にはバスロータリーが設置されていて、昨日乗車した盛岡行のバスのほか、仙台、東京への高速バスが発着。そのほか付近一円への路線バスが発着し、宮古市やその周辺の交通ターミナルとなっている。地方の駅にしてはバス乗り場がたくさんあることに驚いた。駅の裏手には宮古市役所がある。駅舎の隣から線路を跨いで連絡通路が延びていて、駅正面からも直接市役所に行けるようになっていた。
もう一つ気になったのが、市役所の隣に見える大きな煙突である。昨夜この駅に着いた時には見えなかったが、朝起きてホテルから外を見ると、でっかい煙突が建っていてびっくりした。閉伊川の対岸にある「ラサの大煙突」というもので、そこにあるラサ工業の宮古工場でかつて使われていた煙突らしい。今は使用されていないが、宮古市のシンボルになっている。

少し街の方へ歩くと、東日本大震災の津波浸水深を示す表示があった。宮古市も東日本大震災の津波では甚大な被害を受けた。黒い海水が車や漁船を巻き込みながら堤防を越える映像は、震災当時何度もテレビで流れていたのを思い出す。これは宮古駅からわずか1kmほどの閉伊川の河口部で撮影されたものである。駅自体は無事だったが、駅の東側の市街地は津波による浸水被害が発生した。当然ながら海へ近づくほどその被害は壊滅的なものだった。
鉄道の被害も甚大だった。詳しいことは去年の旅行記に記載している。三陸鉄道では被害状況の把握のため、宮古駅に停車していた車両を活用した。災害対策本部を車両内に設置して停電の中でも情報収集を行ったという。三陸鉄道では高架橋などの構造物も多く、津波被害と同時に地震の被害も甚大であった。一方、もともと山田線だった宮古~釜石間も甚大な被害が発生している。路線名の由来である陸中山田は津波後の火災で駅舎、ホームが焼失したほか、津軽石駅では車両が津波に押し流されており、その被害は枚挙にいとまがない。昨年の旅で東日本大震災津波伝承館を見学したときには、山田線の途中駅だった大槌駅の折れ曲がった駅名標が展示されていた。

駅前の市街地をぐるっとまわって、宮古駅へと戻ってきた。宮古駅には外改札が存在していて、出口として使われている。この外改札と駅舎の間には駅そば屋もある。なんと朝6時30分営業開始になっており、まもなく開店の時間だった。残念ながら列車が45分発なので、今回は食べられなかったが、6時30分前になると早速地元のお客さんが食券を券売機で購入していた。朝から駅そばを食べられるなんてうらやましい。調べるとそばだけでなくラーメンも販売されているらしい。また、コロッケを乗せたコロッケそばも有名のようだ。
1日4本の盛岡行の列車の改札を待つ

さて、駅の待合室で列車の発車を待つ。宮古駅は発車の10分ほど前に改札が始まる。それまでは改札前の待合室で待つことになる。三陸鉄道の時刻表とともに山田線の時刻表も改札横に張り出されている。ほんとにこれだけかと疑いたくなるくらいに本数が少ない。宮古駅を発車する山田線は1日に6本のみ。このうち始発と終電の1本は途中の川内駅までの運転となっているので、盛岡まで行く列車はわずか4本しかない。自分が住んでる九州でも本数が極端に少ない路線があるが、山田線の場合、県庁所在地である盛岡に行く列車が4本しかないのだから驚きである。なお、盛岡側でも上米内~盛岡間で区間列車が設定されているので、盛岡駅近辺では本数が若干増える。
乗車するのは6時45分発の普通盛岡行。上下各4本ずつの盛岡~宮古間直通列車のうち、上り1本、下り2本は「リアス」という名の快速列車となっている。そのため、山田線を走破する"普通列車"は上り3本、下り2本しかない。
山田線の普通列車で約2時間45分かけて盛岡へ

発車時間が近づいてきたが、駅の待合室は自分と2人組の女性しかいなかった。10分前となり改札が開始されると、駅のホームへ入ることができた。宮古駅は0番線から3番線まで4つのホームがある。0番線は行き止まりになっていて、当駅始発の三陸鉄道リアス線久慈方面行の列車が使う。山田線は1番線と3番線を使うが、1番線は到着のみで使用されていて、当駅発の列車は跨線橋を渡った先の3番線から発車する。3番線へ行くと、キハ110系2両編成が停車していた。今回の旅2度目のキハ110系への乗車となった。

山田線の列車が止まるホームの隣には、三陸鉄道の車両基地が広がり、車両が多数留置されていた。以前の三陸鉄道は北リアス線と南リアス線に分かれていて、北リアス線の運行本部と車両基地は久慈に、南リアス線の運行本部と車両基地は盛に設置されていた。旧山田線が組み込まれてリアス線となる際に、運行本部と車両基地が統合され、ここ宮古に設置されている。研修庫は旧山田線区間の復旧にあわせて整備されたので、まだ真新しい。
乗車記録 No.5
山田線 普通 盛岡行
宮古→盛岡 キハ110

三陸鉄道の列車を横目にJR山田線の旅がスタートする。結局、宮古駅から乗車したのは5人ほどで、1両に2・3人というガラガラ状態だった。この列車の盛岡までの所要時間はおよそ2時間45分。宮古から盛岡へ行くには、前日に乗車した岩手県北バスの106特急・急行バスの方が1時間ほど早く着くので、山田線を使う人は少ない。それにこの時期の山田線は車両空転が頻繁に発生し、1時間を越える遅延が発生することもよくある。わざわざ所要時間が長く、遅延も多発する列車を選ぶのはほぼ鉄道ファンくらいなものである。晴れていても前日に雨が降ったりすると、レールに落ち葉が付着しやすく遅れやすい。この日は前日も晴れていたが、果たして定刻で盛岡へたどり着くことができるのか、そんなこの路線特有の緊張感をもって宮古駅をあとにした。

宮古駅を出た列車は宮古の市街地を眺めながら走り、すぐに千徳駅に到着。ここで一人の乗客を乗せた。その後しばらく走ると、閉伊川が見えてくる。山田線は宮古から区界駅までひたすらこの閉伊川に沿って走っていく。途中では何度も閉伊川を渡る。なんとその鉄橋の数は30個を越えるらしい。最初のうちは、進行方向の左側に閉伊川が見えている。手前を走る道路は、国道106号線。昨日乗車した106特急バスはここを通って宮古駅へ向かった。
花原市、蟇目と停車すると、かなり両岸の山々が近づいてくる。蟇目駅の先が盛岡宮古横断道路の高規格道路区間の一旦の終点になっている。蟇目駅を出たところで列車は初めて閉伊川を渡る。現在山田線の宮古側で最初に閉伊川を渡る第33閉伊川橋梁である。ここから先は蛇行する川に沿い、そして時々渡りながら山の奥深くへと分け入っていく。現在と書いたのは、現在の三陸鉄道リアス線の旧山田線区間でもう一度閉伊川を渡るため。宮古駅から釜石駅方面に行ったところに第34閉伊川橋梁があり、これがもともとは山田線で一番河口部に近い閉伊川橋梁だった。
かつて岩泉線が分岐していた茂市駅で下り列車と行き違う

列車は宮古駅を出て20分ほどで途中駅の茂市駅へと到着した。ここでは反対列車を待ち合わせるため、数分停車。宮古駅を先に出ていった川内行の列車が川内で折り返して帰ってくる。行き違うこの列車は宮古側に通学できる唯一の列車になっている。かつては、宮古から5両編成で来たキハ58・52が川内駅で切り離し、2両は盛岡へ、3両は宮古へ変える運用もあったという。宮古側への通勤通学で山田線を使う人も多かったのだろう。停車時間があったので、ホームに降りてみた。ここ茂市駅は鉄道ファン的には降りておきたい駅の一つである。

駅構内は現在1面2線しか使われていないが、無駄に広い。かつてこの駅は山田線の他にもう一つの路線が発着していた。それがこの駅から岩泉駅までを結んでいた岩泉線である。山田線の途中駅からさらに分岐する路線があったなんて、今となっては本当かどうか疑いたくなるレベルだが、廃止されたのは2014年と割と最近である。ただし、廃止されたのは2014年だが、実際に列車が運行されていたのは2010年までである。2010年7月に走行中の列車が土砂崩れに巻き込まれて脱線。それ以降、廃止まで列車が走ることはなかった。岩泉線は2009年の時点で輸送密度が1日1kmあたりわずか46人で、JRの路線としてはワーストであった。多額の復旧費用と土砂崩れへの対策費用がかかることから、鉄道としての復旧は断念され、2014年4月1日付で廃止されてしまった。現在は東日本交通のバスへと転換されている。この岩泉線はもともと小本線という名前で計画され、茂市から岩泉を経由して三陸鉄道リアス線の走る岩泉小本駅付近までつながる予定だった。写真の奥に見えるホームはかつて岩泉線が使っていたものである。以前は跨線橋と立派な駅舎のある駅だったが、現在は構内踏切に変更となり、駅舎も簡易的なものになった。山田線が発着するホームは2・3番線になっている。1番が欠番になっているのが、かつて岩泉線が走っていた証である。
閉伊川の流れに遡って山の奥深くへ

茂市駅ですれ違った1両の宮古行普通列車は、茂市からも何人かが乗り込んでいて、2両の盛岡行よりも乗っている人が多かった。この日は日曜日だったので、平日ならもう少し多いのかもしれない。小さいながら山田線が地域輸送で活躍する姿を見ることができた。
茂市駅を出た列車はさらに山の奥へと進んでいく。山の斜面の木々は山の奥へ進むほどに紅葉が進んでいる。宮古からはジワジワと標高を上げる山田線。徐々に深まる紅葉が山を登っていることを教えてくれる。朝日に照らされる紅葉した木々がとても美しかった。

列車は陸中川井に到着した。ここは茂市を出て最初の大きな集落で、小学校や市の支所なども設置されている。それもそのはず、かつては川井村という村の中心部だった。時々車窓にこうした小さな街が現れると、安心感に包まれる。
閉伊川は本当によく蛇行している。川の蛇行が緩やかなら、線路や国道もそれに沿う。川の蛇行が激しい時は線路や国道は鉄橋で川を短絡する。その繰り返しである。頻繁に川、線路、国道、高規格道路の位置が変わる。高規格道路は国道が蛇行しているところを短絡するように作られている。そのため、国道には頻繁にこの先直進すると高規格道路で人や原付は通れないということを示した標識が設置されていた。全線が高規格道路になっているわけではなく、ところどころで旧来からの国道を挟む形になっている。昨日バスで通ったときは真っ暗で気付なかったが、こんな場所を走っていたなんて驚いた。
川内駅で盛岡始発の普通列車と遅延なく行き違う

列車は川内駅へ到着した。列車は茂市駅に引き続き、この駅でも対向列車を待ち合わせる。この駅で待ち合わせるのは、盛岡始発の宮古行。空転を考慮して計画を変更する前、当初の計画で乗車する予定だった列車である。果たして、定刻に現れるだろうか。祈るように列車を待つ。途中駅から乗車する乗客は千徳駅以来一人も現れず、相変わらず1両に3人くらいしか乗っていない。東北随一のローカル線の旅はまだ中間点にも至っていなかった。
現在、JRの路線の運行管理や列車への指令、信号制御などは基本的に遠隔で行われ、区域ごとに集約された指令所などから管理している。ローカル線の場合にも、閉塞装置を自動化した上で、CTC(列車集中制御装置)を使って制御している。山田線はこのCTCが2018年まで未導入だった。閉塞方式についても自動閉塞式が導入されておらず、長い間連査閉塞式という方式が用いられていた。この方式は簡単に言えば、閉塞区間の隣同士の駅で、運転取扱業務を行う駅員が連絡を取り合い、閉塞区間に列車がいないことを確認して、閉塞区間を確保したのち、列車に発車の指示を出すもので、遠隔操作や自動ではないため、駅に駅員が常駐している必要があった。そのため、山田線(宮古~盛岡)の途中駅では、交換駅である茂市、川内、区界(現在交換設備は廃止)、上米内の各駅に駅員が配置されていた。昔のローカル線の駅を映した写真や映像でよく見かけるも赤い旗をもった駅員が列車の発車を見送るという光景が、ついこの前まで見られていた。

この駅周辺も家々が点在し、市の出張所がおかれている。先述の通り、宮古側からこの駅へは朝と夜に区間列車が運転されている。先ほど茂市駅ですれ違った列車は、宮古を5時台に発車し、この駅で折り返して、宮古側へ向かう地元住民を運んでいるのだ。宮古市はこの先も区界駅まで続くが、この駅が宮古側への地域輸送の一端である。前日に乗車したバスが休憩したやまびこ物産館は、この川内地区にある。バスはここから宮古まで40分ほどで走ってしまうが、列車は宮古からここまで1時間8分かかった。この時点でも列車はバスの1.5倍の時間がかかっている。この駅から区界駅までは、乗車列車が始発列車になる。
対向の列車は定刻で現れた。この日はなんとか空転することなく先に進みそうである。しかしまだ山登りは途中。下り坂の始まる区界駅までは油断できない。

もう宮古を出て1時間以上経っているというのにまだ山を登り続けている。時々頭上を直線的な道路が通りすぎていく。昨日バスで通った高規格道路である。川に沿ってクネクネ走る山田線が勝てるはずもないのがここへ来ればよく分かる。芸備線とか木次線に乗ったときにも思ったが、よくこんなところに線路敷いたよなと言う率直で単純な感想が頭に浮かぶ。この路線の建設が決まったのは今からおよそ100年前の1920年である。岩手県出身だった原敬首相が決断し、路線の建設が決まったという。この時野党議員から路線の建設を疑問視する声が上がり、国会の場で、「こんなところに線路を敷いて首相は山猿でも乗せるつもりか」と言われたのだそう。それに対して首相は「鉄道規則により、猿は乗せないことになっている」とジョーク的に答弁したと伝わる。この話の真偽はわからないが、それくらい山田線は山深い場所に建設された。
川内駅と松草駅の間には今年3月まで平津戸駅という駅があった。2022年3月改正で全列車通過の扱いとなり、今年正式に廃止された。車窓にはその駅の跡を見ることができるが、すでに駅舎は取り壊されていた。
紅葉深まる区界駅周辺を通り、峠の急坂を下る

松草駅を発車すると、いよいよ閉伊川も川か溝かわからないくらいの川幅となる。そしてこれまでずっと山の谷間を走ってきた車窓も一気に開け、高原へと出た。山の紅葉もこれまでにないほどに美しい。海抜8mだった宮古駅から、1時間45分も山を登り続け、標高は700mを越えている。山のてっぺんに来ると、線路も直線的になり、列車は軽快に走っていった。

列車は区界駅に到着した。この駅は標高744mの場所にあり、東北で一番高い場所にある駅である。前述のとおり、2018年までは交換ができる駅だった。現在は棒線化されたため、川内駅~上米内駅間で列車がすれ違うことはできない。駅に到着する直前には真っ赤に紅葉した木が植わっていた。そして、奥には頂上の形が特徴的な山が聳えている。区界高原のシンボルである標高1005mの兜明神岳。山のてっぺんだけ岩山になっていて、山の頂上だけが尖った形をしている。生クリームを絞ったときにできる角に似ている。少し前まで冬季限定で売られていたポルテというお菓子を思い出してしまった。区界駅を出ると宮古市から盛岡市へ入る。ここももともとは川井村で、2009年に宮古市と合併したことで、ここが盛岡市と宮古市の境となった。盛岡市に入ると同時に今度は一転下り坂になる。1時間45分かけて登ってきたが、今度は最大勾配33‰の急坂を一気に下って行く。

区界から先はずっと並走してきた国道106号や高規格道路とは離れて、線路は一人北へと向かい、山の中を彷徨う。次の米内駅はほぼ山を下りきった場所にあり、次の駅なのに所要時間が33分かかる。区界~上米内駅間にもかつては途中駅が2つあった。浅岸、大志田という2つの駅で、どちらも2016年に廃止されている。この2駅、廃止当時は普通の駅だったが、かつてはスイッチバック式の駅だったらしい。列車はひたすらに下り坂を走る。今までと違って川や道路が並走していないので、今までも山深かったがさらに山深くなる。急に進行方向から日が差し込む。線路は短距離で高低差をつけるためにS字に敷かれている場所がある。この区界峠を登る列車が一番空転が発生しやすい。空転が発生して登れなくなったときは、上米内駅まで引き返すこともあるようだ。
上米内駅を経てついに盛岡に到着

列車は30分以上山の中を彷徨い続けてようやく上米内駅に到着した。盛岡駅まではここから15分である。この駅では特にすれ違う列車はないが6分停車した。臨時列車が走るスジがあるようで、11月にはここですれ違う日もあるらしい。この上米内から盛岡までは区間列車が3往復設定されている。この駅から盛岡側へは一定の通勤通学需要が存在しており、すでに区間便3便が発車済み。乗車した列車はこの日4番目の列車だった。
ここから盛岡までの区間は山田線で最も早く開業した区間であり、1923年10月10日に開業している。したがって、開業からちょうど100年が経過したところだった。この数日後にはこの駅で地元住民による駅の開業100年を祝う催しも開催されていた。

この駅からは何人かの乗客が乗車した。ただ、景色はとても県庁所在地の中心駅から15分とは思えない。地図を見ると、市街地からはまだ少し距離があるのが分かる。駅の北西側には新興住宅地らしい宅地がいくつかあるが、駅周辺自体の人家は少ない。盛岡の市街地が始まるのはこの次の山岸駅から。上米内駅を出た列車は再び山の中を走り、盛岡市街を目指した。

宮古市街を出て2時間半以上たってようやく街という街が現れる。ひたすら山の中を突き進んできた列車も山岸駅からようやく市街地を走っていく。山岸、上盛岡と何人かの乗客の乗り降りがあった。それでも結局車内はずっと空いたままだった。最後に列車は北上川を渡り、東北新幹線の高架橋の下を通って、IGRいわて銀河鉄道線と合流。定刻で盛岡へと到着した。

昨日の花輪線はIGRのホームに到着したが、山田線はどことも直通しているわけではないので、JRのホームに到着する。山田線の列車は基本的に盛岡駅では2番線を使っているらしい。東北屈指のローカル線である山田線。当然鉄道路線として、また地域の輸送手段としてのこの路線を見ると、とても厳しい状況と言わざるを得ない。ただ、これだけ山深い場所を行くローカル線も全国にそう多くはなく、ローカル線を楽しむという旅の目線では大満足の路線だった。早朝からの移動だったが、紅葉も美しく、見ごたえ、乗りごたえがあった。また機会があればぜひ乗りに行きたい。

盛岡駅では秋田新幹線に乗り換える。昨日は駅の正面へ行ったので、この日は駅の裏手へと行ってみた。こちらは比較的新しいオフィスビルやテレビ局などがあり、駅正面の市街地とは異なる印象の街が広がる。こちらにもバスターミナルがあり、県外方面への高速バスは基本こちらから発車するらしい。奇しくもこの日の目的地である青森行の高速バスが改札を行っていた。このバスに乗れば3時間ほどで青森へ着くが、自分が青森に着くのはまだ10時間くらい先である。

山田線が空転なく定刻どおりに動いたので、予定通りにこの先の行程も進められそうである。盛岡からは秋田新幹線に乗車して、秋田県の角館へと移動した。遅れたときのために1時間半ほど乗り換え時間を設けていたが、列車を変更して、少し早い列車で角館へ移動することにした。盛岡駅の新幹線ホームへ上がる。ホームにはこの駅で折り返すやまびこが停車していた。やまびこはまだ乗車したことがない。東京駅では慌ただしく折り返す新幹線も盛岡ではかなり折り返しにゆとりがある。E5系をこんなに落ち着いて見たのは初めてかもしれない。奥のホームで繰り広げられるはやぶさ・こまちの連結作業を見ながら、秋田行のこまちの到着を待った。
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