【旅行記】北東北の鉄道路線を巡る旅~龍飛崎周辺を観光する~

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 青森駅から津軽線の列車と代行バス、外ヶ浜町の町営バスを乗り継いでたどり着いた龍飛崎。ここでは3時間ほど時間を設けていたので、周辺の観光スポットをいくつか巡った。まずは町営バスのバス停の目の前にある津軽海峡冬景色歌碑を見に行った。
 

龍飛崎にあるもう一つの津軽海峡冬景色歌謡碑

 「ごらんあれが竜飛岬 北のはずれと 見知らぬ人が指をさす」というフレーズで龍飛崎が登場する津軽海峡・冬景色。国民的ヒットソングであり、演歌を代表する一曲となっている。歌謡碑はこの歌に登場する青森駅と龍飛崎の2箇所に設置されている。
 昨年初めて青森駅を訪れた際には、メモリアルシップ八甲田丸の前にある歌謡碑を見に行った。夕暮れの時間に夕日を浴びる八甲田丸の前で聞く津軽海峡・冬景色はまさに旅情そのもので、旅が終わってからもしばらくこの曲を口ずさんでいた。あの日からもう一つの歌謡碑がある龍飛崎に行くことがその後の旅の一つの目標となった。そして今回もう一つの石碑へ訪れることができた。
 青森駅の歌謡碑はフル再生だが、こちらは龍飛崎が歌詞に入る2番から再生される。また青森駅のものはセンサー式だが、こちらは中央の赤いボタンを押して再生する形である。早速赤いボタンを押してみる。自分以外にほとんど人のいない龍飛崎に津軽海峡・冬景色が流れる。歌詞にを風の音が胸を揺する泣けとばかりに」とあるが、津軽海峡は風が強い場所としても知られる。龍飛崎もまた風が強くて風の岬と呼ばれている。歌詞とはまた意味が違うが、目の前に広がる津軽海峡を前にこの曲を聴くと、なんだか泣けてくる。いつか行きたいと思っていた場所にようやく来ることのできたという喜び、満足感、高揚感、そうしたものが溢れてくるようなそんな感覚があった。
 
 青森駅と違って龍飛崎は、航行中の青函連絡船の窓から龍飛崎を見るという構図であり、ここが舞台というわけではない。しかし、津軽半島の先端であるこの地を船の上から見た時、旅人たちは何を思ったのだろうかと考えてみる。本州から北海道へ渡る際には、本州と別れる場であり、北海道から本州へ渡る際には本州と出会う場である。その本州の目印の一つがここ龍飛崎だったはずである。そして時代は流れて青函トンネルが開通する。その青函トンネルが通るのもここ龍飛である。トンネルは地下深くを走るものの、青函トンネル開通以降、龍飛は北海道に対する本州の玄関口となった。今もここ龍飛は、本州と別れる、もしくは本州に出会うときの目印であり続けている。
 
 歌謡碑の前から津軽海峡を見てみる。洋上は風が強く、青い海は白波を立てている。真下に見えるのが龍飛の集落である。漁港の先には帯島呼ばれる小島があって、これがまた龍飛崎の景色にアクセントを与えている。一方、奥に見えるのは北海道である。渡島半島のうち西側の松前半島南側の山々が見える。少し視線を左に向けると、うっすらと山の稜線が見える。道南いさりび鉄道が走るその背後にある山々である。函館の街は見えないが、うっすら亀田半島と思われる山の稜線も見える。霞がない日だと、北海道駒ヶ岳も見えるという。駒ヶ岳は直線距離で100kmほど離れている。
 

日本海の大海原を一望する碑の丘

 津軽海峡冬景色の歌謡碑前から階段を上って碑の丘と呼ばれる場所までやってきた。ここにはいくつかの石碑が置かれている。小高い丘になっているので、龍飛崎周辺を一望することができる場所でもあった。東側は集落が点在し、国道も海岸線を走っているが、西側は未開発であり断崖絶壁の海岸線がこの先10km近くに渡って続いている。国道もここからしばらくは山の中を走っているので、東側の海岸線を行く道もない。日本海側からはとても強い風が吹き付けていた。とても人が住める環境ではない。頭上をゆく雲の流れも速かった。
 
 北海道方面を見る。おそらく松前町の中心部方向を見ているはずである。沖合には小島という小さな島が浮かんでいるのが見えた。海は波が高く白波が海岸に打ち寄せている。東側は風が強いため木々が少ない。まさに果ての景色である。くれぐれも風にあおられて斜面を転げ落ちないように気を付けないといけない。
 

灯台が立つ龍飛崎の先端へ

 碑の丘から移動して龍飛崎の先端部へとやってきた。先端部分には海上保安庁が管理する龍飛埼灯台がある。1932年に初点灯した灯台で、津軽海峡周辺をゆく船舶を見守り続けている。日本の灯台50選にも選ばれているそうで、国内を代表する灯台の一つでもある。
 一方、近くには海上自衛隊の龍飛警備所という施設もある。津軽海峡は他国の船を含めて多くの船が行き来しているので、それを監視警戒するための施設である。社会の授業でも習うが、通常国の領海は領海の基線から12海里となっている。しかし、津軽海峡をはじめとした国内のいくつかの海峡では、国の法律で領海の範囲が3海里と定められている。3海里とは大体5.5kmほどとなっており、実は津軽海峡の中央部は公海である。
 もう目前に見えている北海道との間になぜ公海があるのかといえば、その背景には非核三原則があるらしい。もし津軽海峡が領海となっていたとき、非核三原則に反する兵器が搭載された他国の軍艦がここを航行すると、原則に反することとなる。領海は通常、他国のそうした船舶の航行はできないが、国際的な航海に使用されている海峡においては、他国の船も通過する権利があると国際条約で定められている。そのため、領海であってもそうした船舶の航行を拒むことができないらしい。そのためあえて領海を狭め、領海ではない場所を通過させることで、非核三原則との矛盾を解消している。
 
 龍飛埼灯台の先端までやってきた。先端には海上自衛隊のレーダーが設置されているので、行けるのはその手前までである。切り立った岩場が海に迫り出している。美しい自然の景色だが、少し怖さを感じる断崖絶壁である。ここが龍飛崎周辺では一番高い場所で、周辺に風を遮るものがない。それ故とにかく風が強くて今にも吹き飛ばされそうだった。写真を撮るのもやっとで、風が強い時は物陰に隠れて、風が弱まった一瞬を狙って撮影した。海を見ながら黄昏るなんてことは到底できなかった。
 
 灯台の前から龍飛崎周辺を眺めてみる。かつてこの地は青函トンネル工事の一大拠点だった。龍飛漁港から一段上に上がった場所はかつて鉄道公団や建設に携わった企業共同体の事務所、さらには工事関係者の宿舎などがあった。今は建物が少ない龍飛岬周辺だが、灯台から見下ろすと、建物が建っていたであろう場所がいくつもあるのが分かる。青函トンネルは、竜飛崎の先端の真下を通っているわけではなく、そのやや南で津軽海峡へと出る。写真の奥に旅館の建物が写っているが、トンネルはこの建物の真下の地下深くを走っており、画面のおよそ中央を横切っている。青函トンネルの防災拠点の一つである竜飛定点はこの龍飛の地下にある。避難所などが設置され、ケーブルカーを使って地上に出られるようになっている。写真には写っていないが、写真の右側にはJR北海道の建物もある。この後行った青函トンネル記念館の映像展示で知ったが、トンネル内への電源供給やトンネル内換気などの設備が設置されるとのことであった。
 

日本で唯一階段が国道になっている国道339号線

 龍飛崎で有名なものといえば、階段国道がある。道路・交通の雑学の鉄板ネタとして知られ、地図帳のコラム的なところには必ずと言っていいほど登場する存在である。自分も小さいころから地図帳を眺めるのが好きだったので、幼稚園か小学校低学年の頃には、階段国道の存在は知っていた。ここは全国の国道で唯一、階段が国道に指定されている区間である。交通機関だけでなくて道路にも興味があるので、ここも一度は訪れてみたい場所だった。階段の上下と中間地点に国道であることを示すおにぎり形の標識が立っていた。
 
 階段国道の開始地点。先ほどの津軽海峡・冬景色歌謡碑から歩いて30秒のところにある。画面の右奥から続く道が、五所川原から走ってきた国道339号線である。この道をまっすぐ進んで、写真の後ろ側へ行くと、竜飛崎灯台近くの駐車場やキャンプ場に行くことができる。しかし、国道はそちらへは行かず、ここで曲がって階段区間へ突入する。その後、高低差約70mを階段で降りて、階段下の龍飛集落から再び車道を含む国道が再開し、三厩へと向かっていく。なお、階段が国道に指定された理由についてはよく分かっていないのだという。漁港へ車で下りれない桶ではない。車で海岸近くへ下りたいときは、右側の道をUターンしてしばらく進めば、下へ降りるヘアピンの道がある。町営バスもこの道を通り漁港から山の上まで登ってきた。道も割と広いが、それは国道ではなく、国道として海岸へ下りるのはこの階段だけである。
 
 階段国道は上側と下側があり、その真ん中には少し開けた場所がある。ここはかつて三厩村立竜飛中学校があった場所であり、その跡地を示す石碑が設置されていた。青函トンネルの工事拠点となった龍飛。工事関係者の子供たちもここで暮らし、工事期間中は中学校の生徒数も多かったらしい。
 
 下側へ行くと、今度はジグザグ状に階段が山の斜面を下りている。上側区間とは違って、龍飛の集落や漁港、さらには津軽海峡を見ながら下りることができた。先ほど歌謡碑から見えていた帯島も下へ降りてくると一層大きく見えた。
 
 海の近くまで来てみた。海水もとても澄んでいてきれいだった。先ほど青函トンネルは竜飛崎の真下から海へ出るわけではないと言ったが、おおよそ右に見える建物(龍飛郵便局)の真下を走っている。階段の上では日本海側から吹き付ける風がとても強かったが、ここは山の影になっているので、風も心地よく感じた。
 
 行きはよいよい帰りは怖いとはこのことである。帰りは70mの高低差を上って帰らないといけない。これがまた想像以上に過酷だった。階段国道を下るときは、行きが帰りより10倍くらい辛いことを覚悟したほうがいい。途中で何度も休憩しながら階段を上った。間違いなく今年一きつかった。上り切ったときには足が棒になっていた。歌謡碑の隣のベンチで再び津軽海峡・冬景色を聞きながら、しばらく休憩した。時刻は10時を過ぎて、だいぶ観光客の姿も増えていた。
 

ケーブルカー運休中の青函トンネル記念館を見学

 津軽海峡・冬景色の歌謡碑から10分ほど歩いて、今度は青函トンネル記念館へとやってきた。龍飛崎観光の最後は、青函トンネルについての展示があるこちらを見学する。
 先ほどから何度も言及している青函トンネルは、津軽線三厩駅の少し手前にある浜名から北海道の知内までの全長53.8kmのトンネルである。1961年に工事が開始され、1988年に開業。当初は在来線路線の海峡線のみが走っていたが、2016年に北海道新幹線も乗り入れるようになり、現在は在来線列車と新幹線列車が三線軌条の同じ線路を使って走っている。海底部の長さは23.3km。津軽海峡は最も深いところで140mの水深があるが、トンネルは海底から深さ100mの場所に建設されている。青函トンネルには、かつての工事の拠点で、現在は防災拠点となっている「定点」という場所があり、本州側の定点となっているのが、龍飛である。北海道側の定点は吉岡で、それぞれ以前は龍飛海底、吉岡海底という駅となっていた。
 青函トンネル記念館の館内には、トンネルの構造や設備、トンネルが通る地質、建設工事の手法等についての展示がある。映像などやや古い部分もあったが、青函トンネルの構造や建設方法についての展示はとても興味深かった。トンネル本体だけでなく、ここ龍飛がトンネル工事が行われていた頃どんな様子だったのかについても展示があり、今見て来た風景と重ね合わせてみるのも面白かった。
 
 さて、この旅行を計画した時点でのこの旅の最大の目的はここに訪れることだったということは、この旅行記の一番最初に書いたとおりである。ここは青函トンネルの先進坑道へ下りるためのケーブルカーがあり、現在はケーブルカーと先進坑道の一部が、青函トンネル記念館の体験坑道として使用されている。この体験坑道へ続くケーブルカーは、鉄道営業法に基づいて営業される列記とした鉄道路線である。今年も4月から運転されていたが、9月中旬に台車に亀裂が発見されたため、今期中の最終営業日である11月まで運休することが決まった。本来であれば、写真の青函トンネル記念館駅からケーブルカーに乗る予定だったが、運休しているので今回は乗ることはできない。復旧の見込みは今のところ未定であるが、ケーブルカーの営業が再開されたときには再びこの地へ足を運ぶつもりである。ここから地下深くへ潜って体験坑道に行ける日が来ることを楽しみにしたい。
 なお、正式な路線名は青函トンネル竜飛斜坑線。運行会社は一般財団法人青函トンネル記念館であり、全長は0.8kmである。ケーブルカーは北側に向かって下っているが、竜飛定点は青函トンネル記念館から東側にある。竜飛定点から避難所を経由した先にあるらしい。避難用のケーブルカーも兼ねているので、2015年に青函トンネルで発生した特急列車の発煙事故では、乗客の避難にケーブルカーが使用された。先述の通り、かつては竜飛海底駅という駅だった竜飛定点。以前は、見学ツアーの整理券を購入すると降りることができ、このケーブルカーを使って地上に出てきて記念館を見学後、再び地下へ潜って帰ることができたらしい。新幹線が開業する前の2014年に駅は廃止となり、見学ツアーも一足早い2013年になくなってしまった。
 
 龍飛崎で3時間の滞在は長すぎるかなと思いつつ計画したが、実際には足りないくらいだった。風の岬と呼ばれる龍飛崎。風こそ強かったものの、天気にも恵まれてその風光明媚な景色を存分に楽しめた3時間だった。龍飛崎の景色、階段国道、青函トンネル記念館と龍飛崎周辺の観光スポットは一通り見たが、やはりケーブルカーに乗車しなくては、ここでの真の目的は果たされない。またケーブルカーが再開したら必ずここに来ると心に誓った。
 まだしばらく龍飛崎の景色を眺めていたいのは山々だが、3日目はまだこの先も旅程が詰まっている。青函トンネル記念館前から乗り合いタクシー「わんタク」に乗車し、龍飛をあとにした。
 
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