【旅行記】特急宗谷と日本海オロロンライン路線バスで行く道北・稚内旅~路線バスで宗谷岬を観光~
前話
札幌駅から特急宗谷に乗り込んで、日本最北端の駅、稚内駅に到着した。午後は稚内駅前から路線バスに乗車して宗谷岬へ観光に出かけた。
宗谷バスの天北宗谷岬線で宗谷岬へ
稚内市の観光スポットの中で最も有名な場所と言えば、日本最北端の地碑がある宗谷岬だと思う。定番の観光地であり、稚内観光には外せない場所になっている。宗谷岬は稚内の市街地から30km以上離れたところにある。レンタカーで行くのがおそらく主流。しかし、路線バスでも行くことができる。バスは稚内駅前発着で運転されており、片道50分の道のりである。
稚内市街は路線バスがたくさん走っていて移動には困らない。しかし、宗谷岬まで行くバスはとても少ない。宗谷岬を経由するのは、宗谷バスが運行する天北宗谷岬線という路線のみとなっている。このバスは稚内と宗谷岬の先にある浜頓別を結んでいる。1日の運転本数は4往復(うち1往復は鬼志別発着)あるが、帰りのバスの最終がとても早いので、このうち2往復しか宗谷岬との往復には使うことができない。

バスは比較的混雑するという話を聞いていたので、少し早めにバスのりばへ。その前にまずはバス窓口で「稚内路線バス一日乗車券」を購入した。この乗車券は、稚内市内の路線バスが一日乗り放題となる乗車券で、浜頓別方面のバスも稚内市街から宗谷岬までの区間限定で利用できる。ただし、この乗車券は、稚内駅前~宗谷岬間を往復するだけでは元が取れない。往復した場合の料金は2,840円、一日乗車券は3000円である。稚内駅前~宗谷岬間の往復のみであれば、別に「記念乗車券」が2,560円で発売されており、こちらの方がお得になっている。今回は、夜に夕食の調達で数回路線バスを利用する予定だったので、一日乗車券を選択した。窓口では宗谷バスの乗車券類に限りPayPayも利用できた。
時刻はまだ13時過ぎだが、この時間から宗谷岬へ行くと、宗谷岬を15時20分に出るバスがこの日終バスとなる。おそらく過去に置いていかれた人がいたのだろう。窓口では注意事項が書かれた紙も手渡された。

稚内駅前ターミナルから宗谷バスが運行する天北宗谷岬線の浜頓別ターミナル行きに乗車した。バスはおそらく最近納車された新車で、車内もまだピカピカだった。今回は宗谷岬で下車するが、バスは宗谷岬から先も猿払村の鬼志別を経由して、浜頓別町まで走っている。終点までの所要時間は2時間40分で、道内でも比較的長距離を走る路線として知られている。
前話でも書いたが、この路線はかつて南稚内と音威子府を結んでいた国鉄天北線の廃止代替バスとなっている。天北線は南稚内と音威子府を結ぶ路線で、実はこの路線バスも2023年9月まで稚内と音威子府を結んでいた。しかし利用者の低迷により、浜頓別~音威子府間はデマンド交通に置き換えられ、音威子府まで行かなくなった。
乗車記録 No.12
宗谷バス 天北宗谷岬線 浜頓別ターミナル行
稚内駅前ターミナル→宗谷岬

早めにバス停へ来たが、この日は平日だったので、バスはそこまで混んでいなかった。このバスで宗谷岬まで行き、終バスで稚内駅前へ戻ってきても、稚内を17時44分発の特急宗谷札幌行には余裕で間に合う。札幌や小樽、苫小牧あたりからであれば、宗谷岬は鉄道でも日帰りで訪れることができる。さすがに特急宗谷を1日で往復する猛者はあまりいないと思うが、それはそれで面白い気がする。
稚内駅を出たバスはしばらく稚内市街を走っていく。稚内は人口3万3千人の街だが、このあたり一帯の中心都市となっているので、街の規模は人口以上に大きい。L字状に広がる市街地をバスはバイパス経由で走っていった。

稚内駅前から国道40号線を進んできたが、潮見5丁目バス停付近で、バスは国道238号線に入る。この国道238号線はバスが左折する潮見4丁目交差点から網走までオホーツク海側を進んでいく国道である。市街地もこのあたりで途切れて、車窓には海が広がり始めた。奥には山の稜線が見える。その先端が宗谷岬なのだが、まだその先端は果てしなく遠い。バスは一旦国道から離れて、声問地区に立ち寄る。その後、再度国道に戻ると、海とは反対側に稚内空港が見えた。ANAが新千歳便と羽田便を運航している稚内空港は、稚内市街地東側に位置していて、国道の真横に滑走路がある。この時間帯は便がないので、飛行機の姿はなかったが、雰囲気は果ての空港感満載だった。

バスは海岸線に沿って走っていく。このあたりは周辺に高い山や建物がない。そのおかげで自分たちが信じている「上」というのは、地球の重力のおかげで生じる、ある意味での幻想なんだなということを思い知らされる。子どもの頃、南極は地球の下側にあるのに、なぜ立っていられるのかと考えたことはないだろうか。私たちは重力が働く方向と反対側を上だと認識しているだけなのだが、これを実感する機会というのは意外と少ない。周辺に高い建物がないと、自分が地球の側面にへばりついている感覚に自然と陥る。
バスは宗谷地区へ入った。ここは古くは宗谷村と呼ばれる単独の自治体だったところで、今も稚内市の支所が置かれている。稚内市街からかなり進んできて、広がる湾の対岸にはさっきまでいた稚内駅周辺の建物が小さく見えていた。

宗谷岬が近づいてきた。車窓もより一層、果ての景色になる。年間通して風が強い場所なので、山も大きな木々はなく、山の上にはいくつもの風力発電用の風車が並んでいる。奥には島影はなく、宗谷海峡の水平線が広がっているだけである。しばらく海岸線に沿って進むと、いよいよ宗谷岬に到着した。

宗谷岬に到着。自分を含め、バスの乗客のほぼ全員が下車し、地元の乗客らしき1人を乗せて、バスは発車していった。帰りのバスまでは約1時間。それまで宗谷岬周辺を観光していく。
路線バスに乗車するのが好きな自分にとっては、ここから先のオホーツク海側の旅もいつか企画してみたいと思っている。バス路線はここから先も一応遠軽まで続いてはいるらしい。浜頓別、幸枝、雄武、紋別とバスを乗り継げば行けるようだ。しかし、本数が少ないので、1日では行けないようだ。北海道はバス路線の乗り継ぎで旅してみたい場所が他にもある。鉄道路線の乗りつぶしを優先しているので、既に順番待ちが発生している。また新しい順番待ちができた。いろんなところに行けば行くほど、そこから延びる路線が気になってしまうのである。
地元の報道によれば、乗車した天北宗谷岬線鬼志別~浜頓別間の利用が少なく、バスの存続が難しい状況になっているらしい。この路線の続きに乗りに来るときまで、バス路線が残っているが微妙なところだが、デマンド交通でも残っていることを願っている。
日本最北端の地碑がある宗谷岬を観光

ついに今回の旅の最北端の地、宗谷岬に到着した。ここには日本最北端の地碑があり、背後には日本海・オホーツク海の大海原が広がっている。ここと樺太の間の海峡は、日本では宗谷海峡と呼ばれている。国際海峡として日々多くの船舶が通る海峡で、この日も大きなタンカー船がゆっくりと海峡を進んでいるのが見えた。
ここは日本最北端の地だが、ここで言う最北端というのは、ふつう行ける場所としての最北端という意味になる。小学生の社会の授業で習うように、日本が主張する最北端の地は宗谷岬ではない。ここは北方領土や無人島を除いた最北端の地である。つまり、日本国内の移動として、ふつうに訪れることができる最北端の地であり、言い換えればここが国内旅行の北限の陸地ということになる。
北方領土に加え、沖ノ鳥島や南鳥島など民間人の上陸ができない島があるため、日本の領土としての端と、旅行で自由に行ける端には違いがある。現在、国内旅行で自由に行ける最北端の地は宗谷岬、最南端の地は波照間島の高那崎、最西端の地は与那国島の西崎、最東端の地は納沙布岬となっている。鉄道の端は北、南、西を制覇しているが、旅行で行ける日本の端は、今回の宗谷岬が初の訪問地だった。
ちなみに、”無人島を除けば”と書いた通り、日本が実行支配する陸地は、宗谷岬よりも北にまだ存在する。宗谷岬から北西方向を眺めると、沖合に小さな島が浮かんでいる。弁天島と呼ばれるこの島が、現在日本が実行支配する最北端の島である。2枚前または4枚後の写真の画面中央左側に小さく映っている。

日本最北端の地碑の横には間宮林蔵像があり、遠く樺太の方を向いている。間宮林蔵は江戸時代の探検家、測量家として知られる人物で、最大の功績は樺太が大陸の半島ではなく、一つの島であることを確認したことである。世界的にはタタール海峡と呼ばれるユーラシア大陸と樺太との間の海峡だが、日本ではこの功績にちなんで間宮海峡と呼ぶ。間宮林蔵は宗谷岬にほど近い場所から樺太へ渡り調査を行った。
宗谷岬からサハリンの南端であるクリリオン岬(西能登呂岬)までの直線距離は約43km。この日は雲が多かったので見えなかったが、快晴の日には、サハリンの山の稜線を見ることができる。直線距離で言えば、さっき乗ったバスの終点浜頓別町の中心部より近い。

今度は背後にある丘の上に登ってきた。丘の上からは宗谷岬とその背後に広がる海を一望することができる。丘の上にはいろんな記念碑が置かれているが、その中で航空ファンとして見ておきたいのが祈りの塔と呼ばれる塔である。
この祈りの塔は1983年9月1日に発生した大韓航空機撃墜事件で亡くなった乗員乗客を慰霊するために設置された。ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港からアンカレッジを経由して、ソウルの金浦国際空港へ向かっていた大韓航空が、航法ミスによりソ連の領空を侵犯し、ソ連軍によって撃墜された事件で、乗員乗客269人が死亡した。ソ連は事故直後撃墜の事実を認めず、ブラックボックスを回収した事実も公表しなかった。当時は東西冷戦の時代だった。塔は当該機が撃墜されたとされる方角を向いている。稚内は西側の国々の事件調査の最前線となった場所。後の条約改正により、現在は領空侵犯した民間機を撃墜することは禁じられている。

丘の上には宗谷岬灯台が建っている。この灯台は海上保安庁が管理するもので、日本が管理する灯台として一番北に位置する灯台である。先述の通り、目の前の宗谷海峡は国際海峡として、多くの船舶が行き来している。この灯台はこの海峡を行き交う船を日々見守っている。同じ稚内市にある稚内灯台と合わせて、日本の灯台50選のうちの一つに選ばれている。

丘の上から宗谷岬周辺を眺めて見る。今は北西方面を見ている。丘の上には宗谷岬灯台、眼下には日本最北端の地碑が見える。今見ているのは日本海側。沖合に見える小島が日本が実効支配する最北の陸地である弁天島である。丘の上は風が吹き荒れていて、立っていると飛ばされそうだった。龍飛岬も風の岬と呼ばれていたが、ここもまた北海道の先端で吹きさらしなので風が強く吹いていた。

宗谷岬の東側には小さな宗谷漁港が広がっている。宗谷岬とサハリンのクリリオン岬を直線で結んだ線の西側が日本海、東側がオホーツク海と呼ばれているので、この方向に広がる海はオホーツク海ということになる。漁港の周辺には住宅も多い。おそらくここが宗谷地区の中心地ということになるのではないかと思う。写真を撮っているのは大岬旧海軍望楼と呼ばれる建物付近から。明治自体に当時の帝国海軍により造られた海上監視所で、今は宗谷岬の観光スポットの一つとなっている。

1時間の滞在時間もあっという間に過ぎて、帰りのバスの時間が近づいてきた。途中曇り空だったが、奇跡的に日が差すタイミングもあり、とてもラッキーだった。次第にバス停には帰りのバスを待つ乗客の行列ができ始めた。基本的に行きと同じ人達だが、どう見ても行きのバスより人の数が多い。午前中のバスで来て、1日宗谷岬とその周辺を満喫した人もいるのだろう。次のバスがこの日の終バス。このバスを逃すと、浜頓別方面へは行けても、稚内市街へ行くことはできない。バスは定刻通りやってきた。再び広がる大海原を見ながら、稚内市街へと戻った。
乗車記録 No.13
宗谷バス 天北宗谷岬線 稚内駅前ターミナル行
宗谷岬→稚内駅前ターミナル

行きのバスと同じくピカピカの新車のバスで来た道を戻り稚内駅へ。同じ路線だが稚内駅前の運行ルートが行きと少し異なっていた。稚内市街地ではバスも本数に困らないほどたくさん運転されている。帰りのバスは市街地での利用者が多く、通勤通学でバスを利用する人たちの姿があった。人口3万人強の都市にしては路線バスがとても充実している。
稚内市街に近づくにつれて、日が暮れてきた。時刻は16時すぎだが、九州とは1時間くらい暗くなるのが早い。もう夜ご飯のことを考えてしまう自分がいた。

稚内駅へ戻ってきて、この日の日程は終了。稚内駅到着後は駅構内のお土産屋さんでお土産を購入してホテルへチェックインした。まだ次の列車まで1時間以上時間があるが、駅は既に多くの人が列車を待っていた。
ホテルへ歩いて行くと、道中には鹿の姿が。稚内では街中にもふつうに鹿がいるとは聞いていたが、こんなに平然といるなんてびっくりした。下手に驚いたり、威嚇したりせず、速やかにやり過ごすのが正解らしいので、平気な顔していたが、想像以上に大きく、5頭くらいいたので内心は結構怖かった。

この日は稚内駅前にあるサフィールホテル稚内で一泊。かつてはANA系のホテルとして営業していたホテルなのでエントランスはとてもきれいだった。シングルの部屋を予約していたが、運よくツインの部屋に当たった。部屋はところどころ経年劣化していたものの、水回りを含めてとてもきれいに保たれていた。客室の大きな窓からは稚内の市街地と海を一望できた。海が見えない部屋だろうと勝手に予想していたので、これはとても嬉しかった。この後は夕食を調達しに夜の市街地へ。ホテルで1人宴会を開き、2日目を終えた。
さて、北海道の旅もここで折り返しとなる。3日目は朝からもう少し稚内を観光したあと、稚内を発ち、宗谷本線の普通列車と日本海オロロンラインを走る長距離路線バスに乗車して、2年半ぶりの留萌へ向かった。
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