【旅行記】北関東鉄道探訪録 前篇 ~成田・佐原を経由して鹿島線に乗車する~

未乗路線を多く残す北関東を旅する

 蜘蛛の糸のように線路が張り巡らされている関東地方。数年前のわずかな期間、東京に住んでいたこともあって、このエリアの鉄道路線は既に多くの路線を乗りつぶしているが、それでも未だ未乗路線がたくさん残っている。在京時、日帰りで行ける近場路線を優先的に乗りつぶしていたこともあって、まだ乗ったことのない路線は、北関東に集中している。北関東は羽田空港からのアクセスにやや時間がかかり、九州から行きづらい。また、さらに最近の旅は、それまでほとんど訪れていなかった東北や北海道を優先してきたため、北関東の未乗路線巡りは後回しになってしまっていた。東北、北海道の鉄道路線巡りにも一定の目途がついたので、北関東で乗り残している鉄道路線を巡ってみようと思う。
 今回は水戸線や両毛線を使って、北関東をぐるっとまわりながら、鹿島線、鹿島臨海鉄道、信越本線、吾妻線、高崎線の計5つの路線を巡っていく。
 具体的なルートは次の通りである。1日目はまず都心から東へ向かい、千葉県から茨城県へ。ここでJR鹿島線と鹿島臨海鉄道大洗鹿島線に乗車する。2日目は両毛線で高崎へと移動し、信越本線の高崎-横川間に乗車する。現在の信越本線は横川で途切れているが、その先もバスで軽井沢へと抜けることができる。高崎口の信越本線に乗車する際には、バスとしなの鉄道を使って、長野まで行ってみたいとずっと思っていた。そこで、2日目の未乗路線巡りは信越本線だけにして、その後はバスと列車で長野駅を目指し旅していく。最終日は新前橋駅をスタート地点に、吾妻線に乗車する。往路は普通列車を乗り通して終点の大前へ。その後は路線バスを使って草津温泉を訪れ、長野原草津口から特急草津・四万に乗車する。高崎と大宮を結ぶ高崎線も大部分が未乗だった。特急列車では、吾妻線とともに高崎線の車窓も楽しみつつ、1日目に出発した上野へ戻っていく。
 2泊3日の旅程は、天気に恵まれて、ほぼずっと晴れていた。今回も前日のうちに羽田空港に到着。翌朝、宿泊していた蒲田駅前のホテルから京浜東北線で上野へ出て、1日目の旅がスタートした。

 

旅のスタートは上野駅から

 京浜東北線に乗って到着した上野駅。今回はここが旅のスタート&ゴール地点となる。1日目はまず、ここから常磐線・成田線を経由して、最初に乗車する未乗路線、鹿島線を目指した。
 列車の発車時刻まで時間があったので、一度改札の外へ出てみた。上野駅には何度も来たことがあるが、よく考えると駅舎自体をしっかりと見たことがなかった。浅草口にある駅舎は、1932年に建てられたもので、東京の玄関口の一つとしての風格を漂わせている。
 かつての上野駅は、東北、北陸、信越の各方面からの優等列車のターミナルとなっていた。北日本や東日本の各地から上京してきた人たちが最初に踏む東京の地がここ上野で、高度経済成長期には集団就職などで多くの人がここから東京での人生をスタートさせた。その後、新幹線が開業したことで、在来線特急列車の運転本数は減少し、2000年代以降は各地を結んでいた寝台特急も相次いで姿を消した。もちろん現在も、東京発着の東北・北海道、秋田、山形、上越、北陸の各新幹線がこの駅を経由し、在来線でも品川発着の特急ひたちが東北地方へ運行されている。そのため、発車票には今も北日本・東日本各地の駅名が並んでいるが、どれも始発・終着駅は上野駅ではなく、当駅を始発・終点とする定期特急列車で関東地方を出る列車は既にない。
 上野駅は北日本・東日本への優等列車のターミナルであると同時に、東北本線(高崎線・宇都宮線)、常磐線の普通列車のターミナルでもあり、北関東方面への普通列車も、かつてはその多くがここで折り返していた。しかし、湘南新宿ラインや上野東京ラインが開業し、東海道本線や横須賀線との直通運転が行われるようになり、特急列車と同様にこの駅を始発・終点とする普通列車も減少傾向にある。東北本線と常磐線中距離電車(取手より先へ行く列車)で当駅を始発・終点とする列車の運転は、ほぼ朝夕に限られ、日中もこの駅で折り返すのは常磐線の取手までの列車ばかりになっている。
 
 中央改札から改札内へ入ると、目の前には地平ホームと呼ばれるホームがある。山手線や京浜東北線、それに上野東京ラインなどのホームが、中央改札から一段高いところにある一方で、地平ホームだけは改札口と同じ高さになっており、一部はホームが二層式になっている。この地平ホームはかつて東京の一大ターミナルとして賑わっていた頃の上野駅の歴史を今に伝えるホームである。生まれたときにはもう東北方面への特急列車は既に姿を消していたが、札幌行の「カシオペア」や「北斗星」、青森行の「あけぼの」などの寝台特急がこの駅を発着するシーンは、映像として何度も見て来た。しかし、これらも2010年代に相次いで廃止され、この目で見ることは叶わなかった。
 地平ホームの入口には、「ふるさとの 訛り懐かし 停車場の 人ごみの中に そを 聴きにゆく」という石川啄木の歌碑がある。石川啄木は岩手県出身の明治時代の歌人。この詩は1910年に刊行された「一握の砂」という詩集に収録されたもの作品である。明治時代にはすでに、この駅は各地からの上京者が降り立つ駅になっていた。石川啄木もその一人で、駅に降り立つ人の中に、故郷の訛りを聴きに行き、遠い故郷に思いを馳せていたのだろう。今はもう、中高年以上の人か鉄道・交通ファンでなければ、ここが東京の玄関口一つだったこと知ることも少ないかもしれない。
 現在は宇都宮線・高崎線・常磐線で運転される上野発着の列車の一部がこのホームを使用する。このうち、宇都宮線・高崎線は日中はほとんどが上野東京ライン直通のため、ここを起終点とする列車は、その多くが朝夕のみの運転である。朝は当駅到着後回送列車として尾久の車両基地に入庫し、夕は尾久の車両基地を出庫した列車が当駅始発の普通列車に使用される。常磐線は基本的に9~12番線を使用しているため、通常この地平ホーム発着で運転される普通・快速列車は存在しない。一方で、当駅発着の特急「ときわ」がこのホームを使っており、常磐線方面へ行く列車もわずかながらに運転されている。

常磐線・成田線我孫子支線経由で成田へ

 さて、かつてのこの駅の盛栄に少し思いを馳せた後は、鹿島線に乗車するため、千葉県香取市の佐原駅へと移動を開始した。途中の成田までは鉄道でもいろんな行き方があるが、今回はこの中でこの先も利用頻度が低そうな成田線我孫子支線を選択した。成田線の我孫子支線は、東京に住んでいた際に、一度乗車したことがあり、今回が2度目の乗車だった。前回乗車したときは我孫子~成田間の普通列車だったので、上野からの直通列車で乗車するのはこれが初めてだった。
 乗車したのは上野駅を8時39分に発車する快速成田行き。E231系0番台15両編成での運転だった。上野発車時点では15両だが、付属編成である先頭の5両は我孫子で切り離され、我孫子支線内は10両編成での運転となる。常磐線と成田線我孫子支線は、終日直通運転が行われており、日中も1時間に1本が直通している。基本は上野発着だが、朝夕の一部列車は上野東京ラインの列車として品川発着となる列車がある。
 
乗車記録 No.1
常磐線・成田線我孫子支線 快速 成田行
上野→成田 E231系0番台
 上野発車時点では1両に5人ほどしか乗車していなかったが、次の日暮里で座席が8割程度埋まるくらいになった。しかし、短区間利用の乗客が多く、北千住を出る頃には再び閑散とした。列車は快速を名乗るが、列車は快速線上にある全ての駅に停車して行く。快速線を走る列車のうち特別快速以外の列車は、全て快速と案内されるが、厳密には中距離電車の方は普通になっていて、取手までの区間は、普通と各駅停車が同時に存在している。北千住を出ると松戸、柏に停車して、列車は我孫子に到着した。
 
 我孫子では7分ほど停車して、前の5両を切り離した。我孫子からはまとまった乗車があり、再び座席の8割程度が埋まった。車内にはスーツケースを持った乗客がちらほらいた。常磐線沿線から成田空港へ向かう乗客もこの路線を使うことになる。我孫子を発車すると列車は成田線の我孫子支線へ。綾瀬(実際は北千住の先)からここまでは複々線だったが、ここから先は単線となる。
 
 我孫子支線は利根川の南側を東西に走っている。途中の木下(きおろし)駅までは沿線に住宅地が広がっていて、各駅で降りる乗客も多かった。木下駅は印西市に所在する。印西市と言えば千葉ニュータウンがある街。駅から南へ4キロほど行くと北総線の沿線となり、ニュータウンが広がっている。一方、木下駅周辺は昔ながらの街並みが広がっており、すぐ近くに北総線が走っている感じが全くない。木下駅を出ると、車窓はさらにのどかになって、田畑が広がり始めた。10両編成の列車が単線ののどかな景色の中を走っていく、そのキャップがちょっと面白い。下総松崎駅を出ると、京成成田スカイアクセス線の成田湯川駅の横を通って成田市の市街地へ。下総松崎と成田湯川は1.5kmしか離れていないのに、あまりにも駅の雰囲気が違いすぎる。最後に佐原方面からの成田線の線路と合流すると、列車は終点の成田に到着した。
 
 成田駅では乗り換え時間が40分ほどあったので、一度外に出てみた。これまで乗り換えで何度か来たことがある駅だが、大都市近郊区間内の駅であることもあって、駅の外へ出たのはこれが初めてだった。
 成田駅は千葉、銚子、我孫子、成田空港の4方向に線路が延びるが、全てが成田線という珍しい駅である。国鉄時代の成田線は、佐倉〜成田〜我孫子間が本線で、成田〜松岸間が支線だった。民営化の際に路線区間が再編され、成田〜我孫子間が我孫子支線となり、成田〜松岸間に組み込まれた。JRの駅から道を挟んだところには、京成電鉄の成田駅がある。駅から北東に1kmほどの場所には成田山新勝寺がある。成田の街はこの門前町として発展してきた。成田駅もお正月には各地からの臨時列車が運転され、初詣客で賑わう。

成田線の普通銚子行に乗車し佐原へ

 成田からは209系の普通列車銚子行きで佐原へ。朝夕には成田を跨いで千葉と銚子を結ぶ普通列車も走っているが、日中は基本的に成田で乗り換えが必要になる。乗車したのは4両編成だったがら成田線では6両編成も活躍しており、列車によって4両だったり6両だったりする。ここから先の成田線は2021年以来3年ぶりの乗車だった。
 
乗車記録 No.2
成田線 普通 銚子行
成田→佐原 209系
 
 成田を出た列車は久住、滑河、下総神崎と停車して行く。成田を出てしばらくは成田空港へ向かう同線の空港支線と並走する。複線のように見えるが、それぞれ単線の線路が並んでいる。イオンモール成田を横目に、京成成田空港線の高架をくぐると、成田の市街地を出て、車窓の景色ものどかになった。
 
 滑河駅付近から成田線は利根川と並走し、銚子へ向けて東進する。車窓も広々とした平野の景色となり、遠くには筑波山を確認できた。前回この路線に乗りに来た時も晴れていたと記憶しているが、今回はその時よりもさらに天気がよかった。空を見上げると、成田空港から離陸した飛行機が見えた。
 
 成田-佐原間の所要時間はちょうど30分。佐原で列車を下車した。成田から乗車していた乗客の多くも、自分と同じくこの駅で下車していた。佐原駅は香取市の中心駅。隣に香取駅があるが、佐原駅の方が市街地に面していて、駅の規模も大きい。佐原は千葉県の小江戸と呼ばれており、2007年に新しくなった駅舎は江戸時代の町屋をモチーフに造られている。これから乗車する鹿島線は、香取から分岐するが、香取駅発着の列車はなく、全列車が佐原へ乗り入れている。運行上はこの駅が鹿島線の起点である。駅ホームは鹿島線が使う行き止まりの0番線を含めて2面4線がある。駅の配線を見て同じ千葉県の成東駅を思い出した。

小江戸佐原をちょこっと散策

 佐原では、次の鹿島線の列車まで、1時間以上時間を作っていた。駅から歩いて10分ほどの場所に昔ながらの街並みが保存されているエリアがあるので、見に行ってみることにした。
 佐原は江戸時代に利根川水運の中継地として栄えた街である。江戸時代の初期、徳川幕府は江戸川・利根川の河川改修を実施。江戸川に流れ込んでいた水を銚子方面へも流れるようにした。これは江戸を水害から守り、新田を開発するという役割があったが、もう一つ水運を構築するという目的もあり、東北から送られてきた米や海産物などの物資は、銚子から利根川を経由して、江戸へ運ばれていた。この時、その中継地点として栄えたのが、佐原の街。駅の東側の小野川の両岸エリアは、千葉県では唯一、歴史的建造物群保存地区に指定されており、江戸時代・明治時代から残る建物が大切に保存されている。
 
 佐原は埼玉県の川越、栃木県の栃木と並ぶ日本三大小江戸の一つとされている。この通りも観光客向けの飲食店や土産物屋が軒を連ねていた。この日は金曜日だったので、人の姿はまばらだったが、週末になると多くの観光客で賑わう。江戸時代の街並みが楽しめる街ということで外国人観光客の姿も多かった。佐原には香取神宮や水郷佐原あやめパークがある。あやめが咲く春が観光のピークで、この時には都内からも臨時の特急列車の運行がある。
 
 昔ながらの街並みを眺めて、佐原駅へ戻ってきた。小野川から駅へと戻る街並みも昭和の街並みが続いていて、どこか懐かしい雰囲気が漂っていた。今回はサクッと観光した形だったが、商業地として栄えてきた佐原の街並みを楽しむことができた。お昼が近づいてきたので、駅の近くにあるパン屋さんでパンを購入してお昼にした。旅行前はコンビニで何か買おうかと思っていたが、どうせなら地元のお店で買った方が思い出に残る。カレーパンやピザパンを買って食べたが、どれもとてもおいしかった。

鹿島線の普通列車で鹿島神宮へ

 佐原駅からは今回の旅で最初の未乗路線、鹿島線に乗車した。鹿島線は佐原駅の一駅隣の香取駅から、鹿島サッカースタジアム駅間を結ぶ路線である。この路線の普通列車は、香取駅より佐原駅の方が市街地に位置しているため、全列車が香取から成田線に直通し、佐原駅までやってくる。一部に成田方面へ直通する列車もあるが、ほとんどが佐原発着となっている。佐原駅は鹿島線の列車が折り返す駅であるため、分岐駅でないにも関わらず、鹿島線用の0番線が用意されている。
 かつては鹿島線の普通列車も209系で運転されていたが、現在はE131系2両編成での運転となっている。鹿島線では、1日1往復だけ、都心方面との直通列車が運転されている。この列車と夜間の合間運用の普通列車だけは、E235系1000番台で運転されいる。いずれにしても新型車両である。
 209系からE131系に変わったことで、4両編成から2両編成に減車となり、ワンマン運転も開始された。朝夕は1時間に2~3本が運転される鹿島線だが、日中は1~2時間に1本と本数が少ない。都心から沿線への移動はもはや高速バスの一強状態となっており、鹿島線はローカルな輸送を担っている。
 
 この列車の終点は鹿島神宮だが、鹿島線自体はもう一つ先の鹿島サッカースタジアム駅まで続いている。この駅は、臨時駅であり、スタジアムでのイベント・試合開催時でないと営業されない。鹿島線の普通列車もイベント開催時には、鹿島サッカースタジアムまで運行されることがある。鹿島サッカースタジアム駅は鹿島臨海鉄道大洗鹿島線との接続駅で、鹿島神宮駅には鹿島臨海鉄道の普通列車が、一駅間だけJRに乗り入れる形でやってくる。終点が臨時駅であるため、鹿島線は通常、JRの普通列車に乗車しただけでは、完乗することはできない。鹿島神宮で鹿島臨海鉄道に乗り換えて、鹿島サッカースタジアム駅を通過して、やっと完乗となる。全国的にもちょっと特殊な乗りつぶし方をしないといけない。
 
乗車記録 No.3
成田線・鹿島線 普通 鹿島神宮行
佐原→鹿島神宮 E131系0番台
 
 佐原駅の発車前には成田線の銚子行きの列車が到着し、接続を取って先に発車して行った。乗車した列車の乗客も多くが成田線の普通列車からの乗り換え客だった。佐原駅を出た列車は一駅だけ成田線を走り、香取駅へ。香取駅は所在する香取市と同名だが、駅規模は小さい。香取駅では10人くらいの乗車があった。直前の成田線の普通列車から乗り換えて来た人たちで、始発が佐原と知らなかったのか、佐原で乗り換えればよかったという声が聞こえてきた。香取駅が鹿島線の起点駅。ここから列車は鹿島線に入っていく。
 
 香取駅を出ると、成田線の線路と別れて、その先で利根川を渡る。車窓には流域面積日本一の利根川の雄大な景色が広がった。関東地方の広い範囲の水を集めて太平洋にそそぐ利根川。川幅がとても広く鉄橋も長い。佐原より上流の区間は、江戸川との分岐点付近まで、この川が県境になっているが、佐原から下流はしばらく横利根川、常陸利根川が県境となるので、ここは県境ではない。渡った先も香取市になっている。
 
 利根川橋梁を渡ると列車はしばらく高架橋を進む。鹿島線は日本鉄道建設公団が建設し、1970年に開業した路線。この後に乗車する鹿島臨海鉄道もそうだが、この時期に開業した路線の多くは、高架橋や鉄橋、トンネルを多用し、直線的に線路が敷かれている。田園地帯の中にポツンとある十二橋駅も高架駅。利根川と常陸利根川に囲まれたこのあたりには、どこまでも田畑が広がっている。高架橋を走るため、列車からの眺めもとてもよかった。
 
 十二橋駅を出て、しばらく進むと、列車は再び長い鉄橋を渡った。常陸利根川を渡る鉄橋で、この上流部には日本で二番目に大きな湖、霞ヶ浦がある。この川は霞ヶ浦の流出河川となっていて、下流で北浦の流出河川である鰐川と合流した後、神栖市の南側で利根川と合流する。ここが千葉県と茨城県との県境となっていて、橋を渡るとすぐに茨城県の潮来市(いたこ)市に入り、潮来駅に到着した。
 
 潮来駅では乗り降りがそれぞれあり、車内の乗客が入れ替わった。潮来駅を出た列車は次に延方に停車する。この駅も1面2線だが、最近2番線が廃止されたようで、上下列車とも1番線を使うようになっていた。2番線は既に架線が取り外されていたが、信号機は点灯していた。
 延方駅を出ると、その先で北浦橋梁を渡る。北浦を渡るこの鉄橋は長さが1,236mあり、JR東日本の路線の鉄橋としては4番目に長い鉄橋である。ただし、上位3つは河川敷やそれ以外を走行している場所を含めた長さなのに対して、ここは鉄橋の端から端まで川面の上を走る。長すぎて、海の上を渡っているかのようなそんな気がする鉄橋である。ここは北浦の南端に位置し、下流は鰐川という川となり、外浪逆浦で常陸利根川と合流する。
 
 北浦橋梁を渡ると、列車は鹿嶋市に入り、国道51号線のバイパスの上を通過。佐原から20分ほどで終点の鹿島神宮駅に到着した。鹿島臨海工業地帯で有名な鹿嶋市だが、鹿島神宮駅があるあたりは、工業地帯から少し離れていて、緑が多い。駅周辺は比較的新しい住宅地が広がっていた。
 
 鹿島神宮に到着。乗車した列車はこの駅で鹿島臨海鉄道の普通列車に接続。数分対面で並んだ後、まもなく鹿島臨海鉄道の列車が、水戸へ向けて走り去っていった。自分もこれから水戸へ向かうが、一本後の列車に乗車することにして、一旦改札を出た。
 これで鹿島線を完乗したといいたいところだが、ここはあくまで鹿島線の途中駅。次の鹿島サッカースタジアムまで行かないと、完乗にはならない。なお、香取~潮来間に乗車し、千葉県と茨城県との県境を跨いだことで、千葉県の鉄道路線は完乗となった。関東地方では東京都に次ぐ2(都)県目の完乗県だった。

鹿島神宮駅から歩いて鹿島神宮へ

 茨城県鹿嶋市の鹿島神宮駅。その名の通り駅前には鹿島神宮がある。駅は1面2線で、1番線を鹿島臨海鉄道の列車が、2番線を鹿島線の列車が使っている。一方、駅前には広々としたロータリーがある。ここには各地への高速バス、路線バスが発着している。高速バスは現在、東京駅行きの「かしま号」と東京ディズニーリゾート経由東京テレポート駅行きの2路線が運行されている。このうち「かしま号」は関東地方でも有数の高頻度運行を誇り、この路線の運行本数の方が、この駅の列車本数よりも多い。かしま号は日中でも20分に1本が運転されていて、上下便がひっきりなしにロータリーに入ってくる。これでは確かに鉄道に勝ち目はなさそうである。ここから東京へ行くのに鉄道を使う人はおそらくほとんどいない。路線バスは銚子方面のバスの他、鹿嶋市や神栖市のコミュニティバスが発着している。
 成田線・鹿島線でもかつては特急「あやめ」が運転されていた。この列車は東京~佐原間で特急となり、その先は普通列車に変身して、鹿島神宮、銚子双方に向かう列車だった。しかし、この特急列車も高速バスに完敗する形で廃止された。現在も春になると特急「あやめ祭り」が東京~鹿島神宮間で運行されているが、この列車はかつての「あやめ」を期間限定で復活させたような列車になっている。
 
 鹿島神宮でも1時間30分ほど時間を作っていたので、駅から歩いて10分ほどの場所にある鹿島神宮へ行ってみた。
 鹿島神宮は、神武天皇元年(紀元前660年)に創建されたと伝わり、武甕槌大神を祀る歴史ある神社である。全国には鹿島神社が600社あるそうで、その総本社になっている。
 
 鳥居をくぐり境内へ進むと、その先に楼門が建っている。この楼門は江戸時代初期に建造されたもののようで、現在は令和の大改修が行われていた。楼門の先には拝殿設けられていた。今回はここまで折り返したが、さらに参道は奥宮まで続いていて、荘厳な雰囲気が漂っていた。
 ところで、旅行に出発することや、門出を迎えることを鹿島立ちと言ったりする。この鹿島こそここ鹿島神宮を意味している。奈良時代に防人に選ばれた人たちは、鹿島神宮で安全を祈願してから旅立っていた。そのことから転じて、旅行に出発することや門出を迎えることを鹿島立ちと呼ぶようになったらしい。今は旅の途中だが、この先の旅の安全を願いつつ、鹿島神宮を後にして、歩いて駅へと戻った。
 
さて、鹿島神宮からは鹿島臨海鉄道の普通列車で水戸へ。その後は、水戸線の普通列車で、宿泊先の小山へ向かった。