【旅行記】北関東鉄道探訪録 後篇 ~上信電鉄乗車と富岡製糸場観光~

前話 
 
 朝6時過ぎの高崎駅から3日目の行程がスタートした。2日目同様この日も、日が昇る前から活動を開始。最終日となるこの日は、群馬県内で未乗にしている上信電鉄、上毛電気鉄道、東武桐生線の3路線を巡っていく。まずは高崎駅から上信電鉄上信線に乗車した。
 

高崎と下仁田を結ぶ上信電鉄上信線に乗車する

 群馬県を走る中小私鉄の一つである上信電鉄は、高崎駅と下仁田駅を結ぶ上信線を運行している。名前が示す通り、長野県へと路線を延ばす計画があったが、下仁田から先の区間の計画は実現しなかった。そのため、上信線は全線が群馬県内を走っている。上信電鉄は1987年に上野鉄道として設立され、後に社名を変更した。路線も同年に開業し、全区間が130年近いの歴史を持っている。これは現在鉄道路線を運行している私鉄の中では、4番目の古さである。
 上信線は高崎から下仁田までの33.7kmを結んでいる。JR信越本線のやや南側を走り、路線は利根川・烏川の支流である鏑川(かぶらかわ)流域に広がる平地を走っていく。沿線には2014年に世界文化遺産に認定された富岡製糸場で知られる富岡市、そして下仁田ネギで全国的に有名な下仁田町がある。長年に渡り、沿線の通勤通学などの移動を支えてきた上信線。最近では世界遺産の富岡製糸場を訪れる観光客の利用も多い。富岡製糸場はこの路線の途中駅である上州富岡駅から徒歩15分の場所にある。
 
 さっそく有人改札を通ってホームへ入った。群馬県内を旅するこの日は、昨日もわたらせ渓谷鐡道内で使った「GunMaaS」で発売されている「ぐんまワンデーローカルパス」を利用した。通年で2,500円で発売されているこの乗車券は、主に群馬県内の鉄道路線と一部バス路線がフリーとなるとても便利なきっぷである。JRは両毛線、信越本線(高崎~横川)、吾妻線の全線、高崎線の深谷以北、上越線の土合以南、東武鉄道は小泉線と桐生線の全線、佐野線の館林~佐野間、伊勢崎線の川俣以北、わたらせ渓谷鐡道は桐生~沢入間、そして上信電鉄と上毛電気鉄道は全線が利用可能。さらに長野原草津口~草津温泉間、横川~軽井沢間のバス路線も利用できる。これから乗車する上信電鉄では、高崎~下仁田間の往復が2,260円なので、これに加えてJRに少しだけ乗車すれば、それで元が取れてしまう。デジタル乗車券のため、どの鉄道会社でも画面を提示することで乗り降りが可能になっている。以前は同じ範囲が使える紙のきっぷも発売されていたが、こちらは発売終了した。
 5時30分には始発の列車が既に発車していて、乗車した列車は下りの2本目だった。上信電鉄では自社で導入した車両と、JRや西武などからの移籍車両の両方が運用されている。この路線の車両基地は高崎駅の構内にあり、JR高崎線の車窓からも車両基地に並ぶ多彩な車両が見ることができる。往路の車両は上信電鉄自社車両である250形と1000形を併結した2両編成だった。1000形は1976年、250形は1981年に登場。別の経緯を持つ車両だが、近年はこの組み合わせで2両編成を組んで活躍している。250形は両運転台、1000形は片運転台なので連結部も片方には運転台がある。早朝で利用者が少ない時間ということもあり、暖房を効かせるために、改札口に近い一番後ろのドアからのみ乗車ができるようになっていた。車内には1両に10人前後が乗車。列車はやっと明るくなってきた高崎駅を出発した。
 
乗車記録 No.16
上信電鉄上信線 普通 下仁田行
高崎→下仁田 250形+1000形
 
 高崎に続けて南高崎に停車した列車は、住宅街の間を抜けて、次の佐野のわたしへ向かう。南高崎と佐野のわたしの2駅の間には、佐野信号所という信号所が設置されていて、列車の交換が可能となっている。乗車している列車は、ここで高崎方面行きの列車とすれ違った。信号所はこの先も上州新屋駅手前と、千平-下仁田間にも設置されている。佐野のわたしを出ると、列車は烏川を渡る。近くを上越新幹線の高架橋が通っていて、この鉄橋は新幹線の車窓からも見える。その後は西側に広がる山を避けるように一旦南下。山名駅付近で鏑川と合流し、以後はこの川に沿って下仁田へと進む。列車は馬庭や吉井という街を経由し、富岡の市街地を目指していく。沿線の各駅からは高校生が乗り込んできて、車内もやや混雑した。写真には撮れなかったが、車窓の奥の方には雪を積もらせ、朝日に輝く浅間山が見えていた。
 
 上州富岡に到着してわずかに乗客が下車していったが、高校生の多くはそのまま乗車しており、2駅先の上州七日市で皆下車していった。地図を見ると近くには県立富岡高校があるようだった。列車は富岡の市街地を東西に走り、上州一ノ宮駅に到着。その名の通り近くには上野国の一ノ宮だった一之宮貫前神社がある。朝は列車本数が多いので、列車は頻繁に反対列車とすれ違う。上州富岡でもすれ違ったが、再びこの駅でも高崎行きの列車と行き違った。
 
 やがて列車は富岡の市街地を抜ける。沿線の景色もまたのどかな景色へと戻り、徐々に山が近づいてくる。朝早く起きて動き出す時の特権は、朝日を浴びて輝く車窓を楽しめること。まさに早起きは三文の得だと思う。
 
 列車は南蛇井に到着。近くに工場があるからか、車内に残っていた乗客も、その多くがここで下車していった。ここでもまた列車と行き違う。行き違う列車はまだ人の姿はまばらだが、高崎に8時17分に着くので、高崎に着くころには通勤通学客でいっぱいになっているのではないかと思う。
 
 南蛇井駅の次の千平駅を出た列車は、ここからしばらく山の中を走る。右側は森だが、左側には時折鏑川を眺めながら走っていく。駅間距離が比較的短い上信線だが、千平と下仁田の間だけは駅間が少し離れている。途中には赤津信号場が設置されていて、列車の行き違いが可能である。列車はここに停車。直前にも列車とすれ違ったのに、またここで高崎行の列車とすれ違った。下仁田駅の時刻表を見てみると、この時間だけ11分後に普通列車が続行する形になっていた。上信線は現在2両編成しか運転されていないので、おそらく直後に普通列車を続行させることでラッシュに対応しているのだと思う。これまですれ違った列車は700形だらけだったが、ここすれ違ったのは、西武から移籍してきた500形電車だった。行き違う黄色い電車、晴れた朝、二段式の窓のレトロな電車、終点手前の森…。1年前に乗車した三岐鉄道三岐線を思い出してしまった。
 
 信号所を出てしばらくすると、車窓に小さな街が広がり始め、列車な終点の下仁田に到着。高崎からの所要時間は1時間4分だった。時刻はまだ7時35分。近くに高校があるわけではないで、この駅で下車したのはわずか数人だった。下仁田駅は有人駅なので、デジタル乗車券を改札口の駅員に提示して改札を出た。

早朝の下仁田駅で折り返し上州富岡へ

 下仁田町の下仁田駅に到着。上信線はここが終点である。この先も山を越えて長野県の佐久穂町にある小海線の羽黒下駅まで延びる計画があったが、その計画が実現することはなかった。この先は小海線が走る千曲川沿いまで直線距離でも30km近く険しい山が続いている。
 駅舎は昔ながらの木造駅舎。かなり年季が入っている。上信線は全駅の半数が有人駅。平日日中や土休日は不在となる駅もあるが、下仁田駅は始発から最終まで駅員がいる。ちょうど朝の清掃時間だったようで、駅舎内を丁寧に掃き掃除をされていた。
 
 下仁田では乗ってきた列車で折り返すが、30分ほど時間があったので、少し駅前を歩いてみた。駅の近くは住宅が密集していて、中央通りという細い路地は、とても昔懐かしい雰囲気が漂っていた。まだ朝8時前で、多くの店はシャッターが下りていたが、途中にある肉屋さんはすでに営業中していた。1日目に桐生のホテルに泊まった時、テレビをつけたらゴールデンタイムの番組で下仁田のタンメン屋さんが特集されて、このタイミングで下仁田かと思ったのを思い出す。なぜか旅行前や旅行中になると、これから行くところがテレビに出てきたりする。普段テレビはほとんど見ないが、だからこそ自分でも不思議な現象だと思う。
 
 下仁田の街はとても味のあるいい街並みだった。寂れたと言えば寂れていることに違いはないのだろうが、だからこそどこかに懐かしさを感じられる街並みである。といっても筆者は平成生まれなので、全国津々浦々にある昭和の雰囲気の街並みが賑わっていた頃は知らない。しかし、それを想像するのが楽しい。通学時間ということで、自転車に乗った中学生とよくすれ違う。通勤時間にはまだ早いので車通りは少なかった。
 
発車時刻が近づいてきたので、再び駅員にデジタルパスを提示して、改札内へ入った。頭端式ホームで1面2線の下仁田駅。列車が静かに折り返しを待っていた。駅前にはマイクロバスやハイエースが頻繁にやってくる。ここ下仁田駅は下仁田町の玄関口であるとともに、周辺の鉄道のない自治体の玄関口の役割も果たしている。そのため下仁田周辺のバスだけでなく、南牧村、上野村からのバスも乗り入れている。
 
 下仁田からは再び250形と1000形の2両編成に乗車して、上州富岡へ向かった。8時をまわり沿線の高校へ向かう通学時間は終了。下仁田から乗車したのはわずか5人ほどだった。上州富岡までの所要時間は25分ほど。下仁田ではガラガラだったが、上州富岡までの間に座席の半分程度が埋まる程度には乗車があった。
 
乗車記録 No.17
上信電鉄上信線 普通 高崎行
下仁田→上州富岡 250形+1000形
 
 下仁田から来た道を戻って、上州富岡に到着。高崎からお世話になった列車とは、ここでお別れとなった。上州富岡駅は富岡市の代表駅。上信線ではちょうど中間点付近に位置していて、ここで高崎方面に折り返す列車も数往復設定されている。駅は2面3線。下仁田発着の列車は1面2線の島式ホームを使い、駅舎側の1線は基本的にここで折り返す高崎方面行きの列車が使っている。
 
 上州富岡駅がある富岡市は人口約5万人の街。高崎を除けば上信電鉄沿線で一番大きな街である。この駅はこの街の玄関口として多くの人が利用している。富岡はなんといっても富岡製糸場があるところ。2014年に「富岡製糸場と絹産業遺産群」の代表的な遺産として、世界文化遺産に登録された富岡製糸場は、駅から市街地を15分ほど歩いた場所にある。群馬県を代表する観光地である富岡製糸場。北関東、そして上信電鉄の旅を企画した際にはぜひ行ってみたいと思っていたので、時間を設けて立ち寄っていく。富岡製糸場の営業時間は9時から。時刻は8時30分を過ぎたところで、開場までは少し時間があった。それまでの間、駅から富岡製糸場まで歩きながら、街の様子を訪ねてみることにした。
 
 駅から市役所の前を通って富岡製糸場へと歩いていく。富岡市の市役所は隈研吾氏が設計していて、駅周辺は世界遺産の玄関口に相応しいモダンな雰囲気だった。その背後にある市街地は建物が密集していて、駅から市役所にかけてのモダンな雰囲気とは対照的に、昔懐かしい街並みが広がっている。富岡市内を東西に横断する国道254号線を渡り、その先で小さな路地へと入った。
 
 駅と富岡製糸場の間のエリアは、飲食店や飲み屋が多く立ち並んでいる。まだ時刻は9時前なので、どこも開いておらず人気がないが、おそらく夜になると地元の客を中心に賑わうのだろう。富岡製糸場の敷地は広いので、方角さえ間違わなければ、いつかその敷地に突き当たる。適当に路地を歩いていくと、運良く富岡製糸場の入り口の近くへ出た。

2014年に世界文化遺産に登録された富岡製糸場を見学

 富岡製糸場の入場口の前に到着。しかし、まだ開場していなかったので、もう少し周辺を歩いて、開場後まもなく入場した。窓口で観覧券を購入して、いよいよ富岡製糸場の中へと進んでいく。観覧券は1,000円で各種キャッシュレス決済に対応していた。別に狙っていたわけではないが、この日最初の入場者になってしまった。警備員、係員の方々が丁寧に挨拶と案内をしてくれた。
 
 2014年に世界遺産に登録された富岡製糸場。正式には「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成遺産の一つとなっており、ここはそのシンボル的な遺産となっている。明治に入り、日本は海外との貿易を行うようになったが、その際、日本は生糸をさかんに世界へ輸出していた。高品質な生糸は世界で評価され、その需要が増える一方で、劣悪な生糸が生産され問題となっていた。諸外国からは品質の向上と外国資本での工場建設が要望されていた。明治政府は富国強兵をスローガンに掲げて、こうした諸外国の圧力に対抗したが、その中で高品質な生糸の生産と生産力の向上を自国主体で行うことを決め、1870年に官営の工場を建設することを決めた。
 その後、明治政府はフランス人の生糸技術者を製糸場建設の指導者とし、建設地を選定。輸出する港(横浜港)から遠くなく、良質な蚕の生産が行われていて、広い用地が確保できるここ富岡に製糸場を建設することが決定され、1872年に操業を開始した。生糸生産の模範工場として操業を開始した富岡製糸場には、全国から工女と呼ばれる女性たちが集まり、生糸生産が伝習された。これにより多くの生糸技術者が養成され、全国の生糸生産の近代化と生産力の向上に寄与した。
 生糸の生産技術の向上という大きな役割を果たした官営の富岡製糸場は、1893年に三井へ払い下げとなり、その後1902年には原合名会社へ移った。その後、独立を経て、1939年には片倉製糸紡績に合併された。戦後も操業が続けられたが、1987年に操業停止となり、100年以上操業を続けて来た富岡製糸場はその役目を終えた。工場内の設備は操業時から大切に保存されており、今にその功績を伝えている。
 富岡製糸場の敷地は広大で、じっくり見て回ると2時間くらいはかかる。今回はこの後どうしても乗りたい列車があったので、45分とやや駆け足で見て回った。窓口でパンフレットをもらえるので、その後ろにある順路図に従って観光するといい。定時でガイドツアーも開催されている。これに参加する場合は先に受付へ行って予約をしておき、集合時間になったら受付へ集まるシステムになっている。
 
 まずは一つ前の写真の東置繭所へ入った。正面向かって左側がガイドツアーの受付場所となっていて、右側は富岡製糸場の概説的な展示があった。この東置繭所は製糸場が建設された1872年に建てられた木造煉瓦造りの2階建ての建物。置繭所とは繭を乾燥・保管するための倉庫。富岡製糸場には東西に2ヶ所の置繭所が設置されており、いずれも国宝の指定を受けている。展示では富岡製糸場の全体構成、操業までの歴史的な背景、官営、三井、原、片倉と歩んだ富岡製糸場の歴史と、それぞれの時代で取り入れられた生産方式について展示されていた。
 続いて順路に従って東置繭所の裏手から少し歩いて西置繭所へ(写真の建物)。こちらには操業当時に使われていた工具や工女の養成のために使われていた教科書など、製糸場で使用されていた様々なものが展示されていた。また、蚕から生糸を生産する工程の概説や、置繭所の建物がどのように使われていたかについても展示があった。
 
 西置繭所からは再び歩いて操糸場へ。製糸場北側の東西の置繭所の間には、工場長や重役の社宅が並んでいて、その一部は中にも入ることができる。今回は時間の都合上こちらには入らなかった。2つの置繭所の南側に建っているのが操糸場と呼ばれる建物。ここは蚕から糸を出す行程が行われる製糸場の中でも重要な場所。当初はフランスから輸入した繰糸機械を用いて、人の手によって作業が行われていたが、後に自動化された。現在は操業停止した1987年の状態のまま保存されている。
 
 繰糸場の中はまさに圧巻の光景。どこまでも自動繰糸器が並んでいる。この自動繰糸器は昭和40年代~50年代にかけて設置された日産製の機械で、製糸場が操業を終えた1987年まで使用された。現在国内で自動繰糸器は製造されておらず、この機械が最も新しい機械なんだとか。機械の前には、ディスプレイがあり、この工程について説明が流れた。この機械も立派な産業遺産だと思う。
 日本の近代化の基礎を築いた富岡製糸場。その歴史や操業当時の様子を知ることができ、いい社会科見学になった。今回は時間の都合でちょっと速足の観光だったが、次来ることがあれば、ガイドツアーにも参加して、もう少し深くいろんなものを見てみたい。製糸場内では今も設備の保存へ向けた工事が進行中だった。世界遺産を次の時代へ引き継ぐ取り組みは、まだこの先も数十年単位で続いていくとのこと。またしばらく経って訪問すれば、見学できる場所も増えているのかもしれない。

JRから移籍した700形電車に乗車して高崎へ

 さて、富岡製糸場を少し速足で見学した後、当初の予定より30分ほど早く上州富岡駅へ戻ってきた。ここからは計画していた列車より1本早い列車で高崎へと戻る。1本早い列車に乗車したのは、この先の予定が詰まっているからではなく、乗りたい車両との兼ね合い。往路の高崎→下仁田で行き違う列車を見ていたところ、どうやら目当ての車両に乗るには、予定していた列車より1本早い列車に乗らないといけないようだったので、急遽予定を変更し、時間を早めることにした。上州富岡駅は列車到着の数分前から改札が行われる。ちょうど駅に着いたタイミングで改札が始まったので、スムーズにホームへ入ることができた。
 
 上州富岡から乗車したのは700形電車で運転される普通列車の高崎行。この車両はもともとJR東日本で107系として活躍していた。JR時代は現在と同じく群馬県内で、上越線、両毛線、信越線、吾妻線などで運用されていたが、211系によって置き換えられた。その内の一部編成は、上信電鉄へと移籍し、現在はこの路線で活躍している。当初乗る予定にしていた列車は、この日西武からの移籍車で運行されていた。上信電鉄を訪ねた際にはこの700形に乗車してみたかったので、予定を早めたのだった。
 
乗車記録 No.18
上信電鉄上信線 普通 高崎行
上州富岡→高崎 700形
 
 上信電鉄で活躍する700形は基本的にラッピングが施されている。乗車した車両は富岡市内にある群馬サファリパークのラッピング列車だった。JRから上信電鉄に移籍した際に車内もリニューアルされている。まだリニューアルから5年ほどしか経っていないので、車内もきれいに保たれていた。
 上州富岡から700形に乗車して高崎へ戻り、上信電鉄の旅はこれで終了。11時になろうとしていた高崎駅の上信電鉄ののりばは、これから富岡製糸場へ行こうとする観光客の姿が多かった。この後は、両毛線に乗車して前橋へ移動し、次なる未乗路線、上毛電気鉄道の中央前橋駅を目指していく。30分早く予定を進めたので、ここでちょっと休憩。上信電鉄ののりばの入口にあった駅そば屋に入り、うどんを食べて腹ごしらえ。その後JR高崎駅の改札へと向かった。
 
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